死生観|自分史、記念誌を1冊から作成。喜寿お祝い、米寿お祝いなどの各種お祝いごとにもご利用いただけます。

思い出出版

「自分で築く死生観」

 現在の日本人は、先の戦争への反省から宗教教育を制限してきたこともあり、諸外国に比べ、死生観の自由度が高いように思われます。そして、死生観は宗教観と密接に結びついていることが多いので、特定の宗教観を持たない人にとっては、死生観を自分で築いていくことになります。

「身近な死」
 今でこそ、日本人の平均寿命が80歳を優に越え、世界屈指の長寿社会を迎えているのですが、戦後の1947年は、男性50.06歳、女性53.96歳、さらに、1920年代初頭は、男性42.06歳、女性43.20歳でした。100年前の日本人の平均寿命は、今の半分ぐらいだったようです。先の戦争直後よりも10歳程、短かったのです。戦時中、成人男子は兵役のために短命であり、残された家族も食べることに窮して亡くなることは想像できますが、それ以上に短かかったということに驚きを隠せません。食べる物もなかったかもしれませんが、病気になっても医療を受けられない人がほとんどだったのではないでしょうか。子どものうちに亡くなることも多かったでしょう。
 遠野物語には、60歳を過ぎると、食い扶持を減らすためにテンデラ野という場所に追いやられる風習が記されています。日本各地に似たような棄老伝説が残されていますが、それだけ食べることが難しかったということでしょう。
 今よりもずっと「死」が身近にあったということだと思います。

 また、江戸時代、武士は帯刀し、『葉隠』で知られる「武士道と云うは、死ぬ事と見つけたり」という一節にもみられるように、主君への忠義のために命を落とす覚悟を強くもっていたようです。相手を殺すという心構えと同時に、殺されても仕方ないという心構えも身に付けていたわけです。彼らには『切り捨て御免』という殺人の特権も認められていましたので、町民や農民は、普段から武士に殺されてはいけないと怯えていたのではないでしょうか。
 時代をさかのぼればのぼるほど、多くの人々が、普段の生活の中で、命にかかわるような危険にさらされていたことが分かります。

「過去の死生観の影響」  
 身近に死があふれていたことから、時代の影響を受けながら、人々は生きることへの意義を考え、死生観を培ってきました。古くは、自然への崇拝から生まれたアニミズム。そして、外国から入ってきた仏教やキリスト教などの宗教、さらに、儒教思想から生まれた武士道の精神が、日本人の死生観に強い影響を及ぼしてきました。
 現在の日本人の死生観にも、それらが脈々と受け継がれています。ただ、平均寿命の延びに見られるように、以前に比べ、日本人にとって死が遠い存在になっているのは確かでしょう。普段の生活の中で死を考えることは減り、病気や事故などの特別な事態に遭遇した時に、はじめて死を考えるようになってきているように感じられます。
 そうなりますと、死生観を考える機会が少なくなりますので、当然、死生観は育ちません。いざ、死が目前に迫った時に、いきなり死生観を持とうとしても、時間が足りません。死生観を十分に育てきれずに最期を迎えてしまう人も多いのではないでしょうか。そうならないためにも、過去の死生観を参考に、自分の死生観を持ち合わせておくことは、大切なことだと思います。

「仮想と現実」  
 現実的な死が身近ではなくなってきていますが、テレビ番組や映画、ゲームで、死を扱うものは増えています。時代劇にはじまり、戦争や戦闘場面が日常的に目の前に繰り広げられています。正義の使者が悪者をバッタバッタと殺していったり、刑事が巧妙な計画で殺人を犯した犯人を捜しをしたりしています。これらはまったくの仮想ではありますが、少なからず、視聴者の死生観に影響を与えているでしょう。
 死生観は倫理観に強い影響を及ぼします。そして、倫理観の未発達が、現在、社会問題になり、学校で道徳を教科にする事態になっています。高齢者をとりまく環境においても、施設での虐待の問題が増えてきています。
 現状で、どのような対策が効果的なのかどうかは分かりませんが、日本人が培ってきた死生観を再考するだけでも、その意味はあるように思えます。




「人はモノ?」  
 セクハラやパワハラ、いじめなどの人権問題が社会問題化しています。人権の問題を考える時に感じるのは、人を人として扱わず、まるでモノのように考えているのではないかという疑問です。古くなった車が買い替えることができるように、「モノ」は替えが利きます。日本には、「畳と女房は新しい方が良い」ということわざがありますが、人権を無視したふざけた言いぐさです。まさに、人をモノとして扱ってきた悪しき証です。また、国家間の戦争や国内の戦において、様々なドキュメンタリー番組やそれらを扱った映画を観たとき、敵国の兵士を人間扱いしていなかったという印象がうかがえます。先の戦争においても、日本人はアメリカ人のことを鬼畜米兵と罵り、アメリカ人もまた、日本人をジャップと差別的にみていました。さらに、日本軍によるインパール作戦では、自国の兵士をも人間とみなしていなかった事実が浮き彫りになりました。
 戦争は人間を狂気にしますが、それが、戦争時だけにとどまらず、今の日本社会においても、その名残りがあるように感じられます。ただ、社会で起こる人権問題が戦争の名残りだけではなく、人間が本来持っている性質であるとすれば、気を付けなくてはいけません。
 資本主義社会においては、商品を売って利益を売るシステムですから、日本においても様々な商品が売られています。しかし、スポーツ選手や俳優等の仕事においては、人自体を商品として扱う感覚にあふれているように感じられます。この現象は、人への感覚が麻痺していると言っても過言ではないように思えます。
 その感覚を相手が持てば、自分自身もまた、モノとしての扱いを受けていることになります。お互いがお互いをモノと考えていたら、そこには、死生観どころか生命観自体が薄らいでいきます。
 今後、AIが発達し、人間の仕事にとって代わられる時代が来るようです。そして、人間好みの機械にふれる機会にあふれ、人間が、人間よりも機械に親しみを感じる時代が来るかもしれません。
 危惧されるのは、多くの人がモノとして生きる人生を選択することです。知らず知らずのうちに、その現象が様々な場所で起こっているように感じられます。
 日本の場合、社会的な背景によって死生観が変わってきました。今、新たな死生観が産み出されようとされているのかもしれませんが、自他の命を軽んじてしまうものでないことを祈るばかりです。